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やらせるとまかせるはことなる

やらされ感があって嫌だというのはよく聞くけど、任され感があって嫌だというのは聞かない。逆に任され感は嬉しいという文脈で使われていることのほうが多いイメージだ。

仕事を頼むときに、「やらせる」のと「任せる」というのは何が違うか。

やらせるときには、あとで自分がチェックして改善することを無意識に考えている。良くいえば、まずは相手が自分の頭で考えてもらって、上がってきたものを直す過程で指導もできるという感じだ。なんだか寛容でできる上司っぽくてよく聞こえる。でもこれは間違いだ。実際は上司として「事前に色々考えるのが面倒くさい」とか「指示して漏れや間違いがあったら怖い」のがほんとうのところだ。

任せるとなると、頼む側の振る舞いはかなり変わってくる。

精神的に、胆力がないとなりたたない。すごく変なもの、ダメに思えるものがあがってくるかもしれない。大外しするわけにはいかないから、業務の背景、結果として実現しなければいけないこと、相手個人に特に何を期待し、何を懸念しているのか、もちろんスケジュールやフォーマットも必要に応じて事前に伝える必要がある。つまり指示を出すまえに仕事を定義しないといけない。脳みそを厳しく使うので、面倒くさい。上がってきたものに違和感を述べる方がラクだ。

頼む側もそうだが、頼まれる側もかなり違う。

やらされたときには、ふわっとした状況で作業を始めることになる。何が正しいか自分なりに考えてもいいが、たいていの人は「頼んできた人は何を考えているのだろう」ということに多くの時間を使う。結果として「どうせ直されるから、ささっと完成度の低いものを作ってまず提出する」というライフハックが生まれる。いずれにしろストレスのある作業だ。これをうまくやるのが(企業の求める)コミュニケーション能力というものである。

任された時には、仕事の定義と権限、責任がセットになってくる。頼まれる側の人の性格にもよるが、やる気は出る。責任があるのでプレッシャーという負担は大きいが、状況があいまいで困るという種類のストレスはない。

やらせると任せる、どっちがいいというのは必ずしも言い切れない。場合によるだろうと思う。ただ確実に言えることは、総合して時間がかかるのは「やらせる」ほうだということである。

戦略とはなんなのか

「どこに絞り込みますか」というお題になると、たいてい議論は止まりがちになる。多くの人は、「絞らなくていいではないか」と心の底で思っている。ターゲットを決めましょうと言われても、全員でいいではないか、という話になる。

自分もこれは大いに思い当たる。大学を選んだ時も、就職先を選んだ時も、「対象が幅広く、可能性が開けていること」を考えていた。絞り込みたくないのである。後戻りができないし、別のところに可能性があったのではないかと、あとから後悔したくないという気持ちがある。

英語の戦略系の読み物では、よく「フォーカス」と出てくる。絞り込みのことだ。経験から言っても、外資系はよくフォーカスを意識する。なぜこんなに彼らは絞り込みを重視するのだろう。ひとつの仮説は、海外では人種や生活レベルがバラバラで、考えていることもバラバラ、いちどに全員を相手に支持されることは難しいと考えていることだ。そういう意味では、日本は逆の傾向がある。日本の場合、根性とか工夫とかによって資源は無限になると考えていそうなところも、違いといえば違いではある。

最近、もう一つのことに気づいた。彼らは時間軸で考えているということだ。最初はどこかに絞り込むかもしれないが、そのあと勢いがついて領域が広がっていくことをイメージしている。だから彼らは絞り込むポイントを入念に探す。最初にうまくいきやすいかどうかだけでなく、その後どれだけうまいことが成立するかを見ている。ドミノを倒すときに、どこから倒せば最終的にたくさんのドミノが倒れるのかを見ている。

このことを彼らは「戦略」と呼んでいるのだろう。現時点でマルバツをつけてマルが集まるところを選ぶのが戦略ではなく、時間をかけてドミノがたくさん倒れる見込みと、最初のドミノのありかについての考えを戦略と呼ぶ。最初のドミノは、できるだけ小さい力で倒せるところ、自分だけが倒せるところがよい。

「絞りましょう」を言うのは勇気がいることだが、その先の時間のことを考えれば、少しだけ気が楽になるかもしれない。

競争の勝者は同じ性格になる問題

いろいろな業界を見ていると、「業界トップ企業は同じような性格になりがち」というのがあるように思う。端的にいうと、ライバルに対してすごく嫌らしく、顧客に対しては良いことを提供するのだけれど、実はちゃっかりと稼いでいるというような。なんか、賢いような、ずるいような、頼もしいような、いやらしい感じ。

これってどこかに理由があるのかなと考えてみると、どうも「競争にまみれている業界ではそうなりやすい」気がする。業界として周りから参入しやすかったり、伸び悩む市場にたくさん競合企業がひしめいているようなところでは、トップがそういう性格になりやすい。

新しい業界のように、たっぷりパイがまだ残っていそうなところ、伸びていそうなところ、あるいは独占的になっていて周りから参入されにくいところでは、トップがそういう性格になりにくいように思う。

皮肉だなと思うのは、周りから参入しやすい業界というのは、一般的に言えば公平な業界ということだ。公平にして競争しやすくすると、ずるい感じにならないと勝ちにくくなる。

複雑なことに、最近ではSNSやらで評判が可視化されるものだから、トップ企業のいやらしさみたいなものに対して、嫌いだ、という評判が出てくることになる。トップ企業からしてみれば、ライバルと顧客だけ見ていればよかったのが、その周りにいる大勢の観客にも気を配らなければいけなくなった感じだ。とはいえまだ「いやらしいから嫌いだ」レベルの評判でトップ企業が傾くといった事例はない。

マーケティング3.0とかソーシャルグッドとか言われるものは、「いい話だけど、儲けることとどう関係があるの?」と思ってしまうところがある。しかしおそらく、いやな企業感を出さずにいかにトップを目指していくべきかということの、ひとつの現状仮説なんだろう。

余談だけど、企業内における個人の出世競争みたいなものも相似形になっていると感じていて、成り上がる人はなんかいやらしい感じがあり、その評判が可視化されてくると違った世界が広がってくるのだろうと思う。

答えの組織と問いの組織

色々な組織と仕事でお付き合いすることがある。
上層部の人と話すと、こちらが提案したことについて二種類の反応がある。
「私はそれは正しいと思う(思わない)」と、「私はそれが狙いに合っていると思う(思わない)」である。
この違いは、組織それ自体の考え方の違いだと思う。

世の中には、答えの組織と、問いの組織がある。

答えの組織では、組織をよい答えを出す場所と定義している。
組織の階層は、よい答えを出せるかどうかで上下に分かれる。よい答えを出せるかどうかは、能力だけでなく、経験が重要になる。だから一般に言って、年長者が上につく。
特徴として、問い(何をするべきか、何が良いことか?)は外から与えられる必要がある。

問いの組織では、良い問いを出すことが、よい答えにつながると考えている。
組織の階層は、よい問いが出せるかどうか、大きな(難しい)問いを小さな(簡単な)問いに分割していけるかどうかによって上下に分かれる。よい問いを出せるかどうかは、能力、おもに論理的な思考力にかかっている。だから一般に言って、上部はやたらと論理的で、下に行くほど単純作業が多くなる。
特徴として、個別の答え自体は自分で出さなくても良いので、専門家に外注することが多い。

どちらがいいとは必ずしも言えないし、混じっていることも多いのだが、自分の価値観に合った組織で働けることが良いのだろうと思う。

ピラミッドのROI

大林組の試算によると、現代の技術でピラミッドを建てるとすれば1,250億円を投資して5年かかるらしい。
ちなみに、スカイツリーの建設費は約400億円、六本木ヒルズは2000億円強である。

ピラミッドは、通常であれば、1日2万人が訪れる。入館料だけ見ると、クフ王のピラミッドは約1500円。1日3000万円、年間では100億円程度の入館料収入がある。さらに宿泊や移動、食事などが発生するから、観光収入はずっと大きい。なお、エジプトの年間観光収入は6000億円ほどである。仮に観光収入の半分がピラミッド関連だとすると、ピラミッドのROIは凄まじいことになる。

もし今、日本でピラミッドを建てるとしたら、どんな企画書になるのだろうか。
目的はなんだろうか?何を目指したのか、いまいちわからない。コンセプト。これもわからない。ターゲット。想定顧客といっても、そういうのが好きな人がターゲットとしか言いようがない。

絶対、この企画書の上申は通らない。他社事例としてクフ王があるだけ。戦略、まるで無し。

大きいものには独自の引力がある。お台場にガンダムを建てても、日本を守ってはくれないだろうから、ガンダムそれ自体になんらかの機能があるわけではない。小さなプラモデルを置いてもまあ人は来ないだろうから、大きいこと自体にかなりの価値がある。もちろん、大きくあることに機能的な意味はない。意味はないのに、労力はかかっている。労力をかける意味は、内部の人たちだけが知っている。

小さい頃から、お祭りに参加するのが好きでなかった。納得できないところがあった。なぜ特定の日にちだけ、音楽や食べものを出して、皆がそろって大げさに踊ったり集ったりする必要があるのだろうか。なぜ私はハッピを着て太鼓を叩く必要があるのか。何を目的にしているのだろうか。なんだかとても一生懸命だが、外から眺めてもわからない。中にいる人には、分かる何かがある。

少し前に、「濡れたスクール水着の上にTシャツを羽織っている風のTシャツ」が話題になった。リンク先ヴィレッジヴァンガードの商品ページ。見ると思わず、誰かに伝えたくなる。有益な情報は世にあふれているのに、どうしてこれを伝えたくなるのか。開発に多大な(無駄な?)労力が想像され、そのくせ記述は少なく、「濡れ透け」や「VV限定」など内輪受けのエネルギーだけが感じられる。

ある集団が、中にしかわからない理由で、多大な労力をかけて何かを作り出す。人は好奇心の生き物だから、そうなれば見たくなり、知りたくなり、理解したくなる。かくして、その場に人が集まる。効率を重視して必要最低限に作り、きちんと論理的に説明がなされるほど、引力は消えていくように思う。きっと、そのほうが上申しやすいが。

労力の大きさ×内側論理の独特さ、という計算式で、引力を作るタイプのROIが考えられそうだ。

生まれ、着く、センス

前に、1万時間の訓練で習熟する、という本があった。スポーツなどの練習ものでは特に、量が質に転化するとも言われる。

5年前に、12kg太った。慌ててレコーディングダイエットに手を出した。毎日、口から入れるすべてのもののカロリーを記録していく。理想を1日1500kcal(後に1200kcal)と置いたがそれほど厳密には追わず、ただただ正確に記録することに気を配った。結果、コンビニでは最初にカロリー数値を見るようになり、理想をオーバーしてしまう日が減り始め、1年後には元の体重に戻った。口に入れた分だけ蓄えられる、そんなシンプルで論理的な人体を実感した体験だった。

3年ほど前からファッションを気にしだした。もとより好きではあったが、お洒落とはとても言えなかった。ファッション誌を見るだけではどうにもならないとわかっていたので、良いと思ったコーディネート画像を大量に集め、ファッション誌に取り上げられるような人と比較したり、世の一般の人と比較したりした。そのうちに自分の日々の格好を記録し始め、それが良いとされるものといかにずれるのか、自分が好きだと思ったものといかにずれるのかを考察しだした。今では外部評価がだいぶ上がってきた。

センスは、複雑なものに対する判断基準だ。ファッションでは色、形、素材、模様、その組み合わせ、本人との相性など多様な要素が組み合わさる。個別解はあっても一般解は導きづらい一方で、センスの良いとされる人は一瞬でそれを判断してしまう。センスは生まれつきのものと、思わず言いたくなる。

センスは簡単に言葉で表現できるものではない。複雑だからだ。だがセンスの身につけ方は表現できる。実践と記録を通じて、何が正しいのか、何が好きなのか、何が流行りなのかを自覚し続け、後に身体感覚になっていくということ。

好きなものを大量に集める。なぜそれが好きなのかを考える。共通点がなんとなくある。それを自覚した上で、正解とされるものも大量に見る。「正しい」と「好き」は重なっているところもあるが、ずれているところもある。「正しい」の中に入らない、自分の「好き」は、脇に捨てる。継続的にやっていると、「正しい」の中にも「流行」と「普遍」があることに気づいてくる。あとは実践、自分でやってみる。わかっていたつもりでも自分で実践すると思い通りにならないことが多い。それも自覚する。繰り返し続ければ、自分の中に「自分ができて、自分が好きで、正解で、流行のもの」の感覚が生まれてくる。その感覚はいつしか発展して、なにか違う感じになっている時に、違和感という形で無意識のうちに立ち上がるようになる。

人間は違和感の検出が得意だ。職人は正しく作業しているときは無意識で、失敗が入ると意識が立ち上がるという。職場に「クリエイティブ・ディレクター」という人種がいるが、彼らは必ずしも自分で案を出さない。上がってきたものに対してあり、なしの判断を下す。必ずしも理由は言わない。言えないのだろう、複雑だから。彼らは違和感検出器のようなものだ。

複雑さに対応する人間の能力はセンスであり、複雑であるほど多くの量を実践することによって身についていく。1万時間とはセンスの複雑さの表現であり、正しく実践をすれば1万時間で身に付けられるという希望でもあるのだろう。

何かをやめさせる時の考え方

仕事では、なにかをしてもらおうとして作戦を練ることがある。じゃあ、なにかをやめさせるというプランはどうだろうか。世の中には、いじめ対策みたいに「なにかを防止したい」というような場合が多くある。こういうとき、どうすると効果があがるのか。

何かをしている人をやめさせたいときに、まずいアプローチというのはすぐに思い浮かぶ。「意志の力で殲滅する」。がんばって、あるいはがんばらせて防止しましょう、のような。人間は何かと意思に頼りたがる。意思で物事が動いていると考えがちだ。それは事実ではなく願望だと思う。

罰を用意すればいいかというとそうでもない。罰は免罪符になってしまうこともある。かつて海外の幼稚園で遅刻に罰金を科したら、むしろ罰金を払えばいいのだと遅刻が増加したという話を聞いたことがある。

ではどうするか。

まず「ガス抜き」だ。元の欲望を、ちょっと似た別の欲望にして受け流す。悪意のあるハッカーに効果のある対策は、彼女を作らせることだと前に見たことがある。いわゆるエロ本や残酷ゲームも、一般には犯罪の温床などと呼ばれているけど、ガス抜きに役だっていると思う。この方法のいいところは、当の本人も気づかないうちに欲望が抜かれているところだ。

次に「ワクチン」だ。ひどくなる前に、いったん軽くかかって慣れろという考え方は素晴らしい。過去に、振り込め詐欺の対策について考えたことがあったが、被害者になりそうな人に練習させてしまうというアイデアがあった。

更に「抱き込み」だ。これは元の欲望の力をそのまま利用してしまうという話。アーティストが海賊版があると聞きつけて、むしろ現地にライブに行ったとか、あるいはニセモノコピーに悩んでいた企業が、それを生産していた工場を買収してしまうとかというのが、この方向性になる。かつて日本がアヘン中毒への対策を行うときに、アヘンを政府専売として、その販売金を別の基金とした・・というのも、このバリエーションに入りそうだ。

「欲望によって欲望を止める」という方向性もある。台湾ではお店がレシートを発行せず、売上金額が把握できず脱税が多発していたそうだが、レシートを宝くじとすることによって対処した。お客さんは宝くじとしてのレシートを欲しがるから、お店もそれを発行せざるを得ない。お客さんの欲望でもって、お店の欲望を止める。ウェブのマッチングデートサービスが出会った男女間での犯罪を防ぐために、ダブルデートサービスにしたというアイデアも聞いたことがある。一対一なら犯罪の可能性もあるが、二対二にしてしまえばその可能性も低くなるということだろう。

いずれのアプローチにも共通しているのは、欲望を飼いならすという視点だ。殲滅するのではなく、うまく対処する。技術的なポイントは、何かを取り除くのではなく何かを足すことによって解決するということにある。ハッカーには彼女を、振り込め詐欺には練習を、海賊版にはライブを、脱税にはレシートを、それぞれ新たに持ってくることによって対処している。何かを防止するからといって、それそのものを消去しに行かない。

いうならば、何かをやめさせるということは、なにか別のことをさせるということだ。

いじめ、どうすればいいだろうか。たとえば上記の考えに従うなら、かわいいペットを教室に導入するとか。「かわいがり」を「かわいがり」にうまく転化できれば、あり得るかもしれない。