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正義のサステナビリティ

サステナビリティという単語は初めて見たときからしっくりこないところがあって、日本語では「持続可能性」ということになる。mortalという英単語を調べたら「死すべき」と訳されて、なんのこっちゃと感じるときの感覚に似ている。

 

つい最近までは、サステナビリティというのは環境問題のことだった。資本主義に乗っかった企業のビジネスを、企業価値を高めるためにガンガンやっていたら、そもそも地球が持たないよ、それは環境や社会が破壊されてしまうから、というような文脈だった。経済として優れていても、道徳的に続きませんよ、と。

 

パーパスという概念が出回っている。いろいろな企業がパーパスを作っている。自分たちの行き先(ビジョン)だけを決めればいいわけじゃないんだ、社会や環境の文脈の中にあるんだ、だからみんなにとって、我々がやっていることはどういう意味があるんだろう、そういうことをパーパスでは考えている。あるいみ現実的な視点だが、以前と比較すると道徳的だとも思う。

 

パーパスは社会のなかでの存在意義だから、内容はどうしても社会課題に寄ってくる。環境問題みたいなことだけじゃない、飢えをなくすだとか、格差をなくすだとか、自由を確保するみたいな、オリジナルな正義みたいなことを、企業やブランドが掲げるようになる。単に掲げるならそれだけのものだ。でもオリジナルな正義は「この指とまれ」と、仲間を募ってついてきてもらわなければ人が動かない。かくして、企業同士はデザインとか技術とかと同じようなノリで、互いのオリジナルな正義を競い出すようになる。どっちの正義に人はついてくるのか、と。

 

ここまでくると、サステナビリティというのは違う意味を持つようになってくる。かつてはビジネスを続けるための環境配慮だったサステナビリティは、各企業が掲げる正義が実効勢力として広がるかどうかのサステナビリティという意味合いになる。優れた企業は、思わず唸るようなオリジナルな正義を掲げるだけではない。その正義を推進するればするほどお金が生み出されるようになる、ビジネス化の手腕を持っているということを評価されるようになる。曰く、「その正義はサステナブルですか?」飯が食えなければ正義も続かない。

 

道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である、と二宮尊徳はかつて述べたそうだけれど、どうも今後は文章の後半、いかに道徳を経済化するのか、経済化させてサステナブルな道徳にできるのか、そのあたりが競争力の源泉になるのだろう。もちろん道徳はそれ自体に価値があるのであって、儲かるかどうかが価値基準ではないだろうけど。