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No more "more"

自分が愛した商品なりブランドなりが、いつのまにか変節してしまって気に入らないものになってしまうことがある。多くの人に好かれるようになったはいいけれど、なんだかわけのわからないものになったり。そのあと、生き続けてくれればいいけれど、飽きっぽい大勢の人たちにつかまって振り回されたあげく、見るも無残な姿になることもある。

提供する人たちの視界には、きっと別のものがうつっているのだろう。前年比105%を達成しなければいけない。類似した競合品が出てきた。固定ファンはいいけれど、新規ユーザーが入ってこない。店頭をテコ入れしなければいけない。確立したブランドがあるから、これをベースに商品ラインを広げていこう、など。どれもよくわかる。

グループの大きさには閾値がある。たとえば企業の部署なんかだと、20人あたりを超えてきたあたりから制御が難しくなり、部員同士の相互作用が鈍くなってくる。会社レベルでいうと、150人あたりに一つのラインがあるらしく、そこを超えると全員の顔と名前をわからない状態になってきて、あうんの呼吸を前提とした運用が通じなくなる。この背景には、ひとりひとりの認知の限界、記憶力の限界がある。

程度の問題、というのはすごく大切な視点だと思う。少ないのは困るけど、あればあるだけいいなんていうのはたいてい嘘だ。贅沢はいけないという精神論とは全く別に、必要以上にありすぎるといけないことがある。倫理とか道徳の問題ではない。人は貧しい時代を長く過ごしすぎたため、本能のプログラムにミスがあるだけだ。どのくらいだと多すぎるのか、という発想や知識がまだまだ少ない。

1000人ビジネスモデルというのを考えることがある。「1000人に愛されることを目的とする」仕事のやりかた。顧客の顔と名前が浮かべられる程度のビジネス。1000人に愛されればそれでいい。大切なことは、1万人だとだめだということ。10万人などもってのほか、100万人なんてとんでもない。

千人の忠実なファン、という概念はすでにあるようだ。

忠実なファンとは、あなたが制作するものを何でも買う、1年間に少なくとも50ドルほどの金額をあなたに関するものに使う、あなたのショーやサイン会には全部行くという人である。独立したアーティストがこのようなファンと直接に取引して、ファンが支払った金額の大部分を手に入れるならば(出版社やレーベルやスタジオや画廊などを通じた取引とは違って)、理論上では、たった千人のファンがいれば、5万ドルの生活費が得られる計算になる。(「千人の忠実なファンのスターたち」: 七左衛門のメモ帳

何百年と残る老舗には、上限の視点が必ずある。旅館や和菓子屋などは、顧客の数が自然と限られる。高級品もそうだ。これらの業態に老舗が多いのは偶然ではない。顧客の上限が決まってしまっているからだ。そして、彼らも無意識に上限を決めている。彼らは「More」なんて言わない。桃屋の「食べるラー油」は大ヒット商品だが、流行は終わるものなのだということから、桃屋はこれを増産しないという。スープストックトーキョーは、必要な数以上に店舗を増やさない。どこにでもあるわけではないが、何店舗か見たことがある、程度。

すばらしいものを作った人が、「自分がほしいものを作っただけ」という。ものつくりのアドバイスに「家族や親しい人のことを思い浮かべて作れ」というものがある。1000人の発想もこれに近い。顧客の顔と名前がうかぶレベルのビジネス。ぬくもりを大切にしたいとかそういうことではない。これは合理的な発想なのだと思う。1000人だったら、お客さんのイメージが拡散しない。ある像を結ぶことができる。結ぶことができるから、その強度を上げることができる。だから、続く。だから、ブランドが確立する。

増やせないではなく増やさない。「More」と言わない。「もういい、もうやめろ」と言う。理由として、ぬくもりだとか禁欲だとかを持ち出さない。合理的に判断する。とても難しい判断だと思う。その確固たる意志というのは、しかしお客さんから見れば、これ以上ない頼もしさに違いない。