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賢さのオルタナティブ

私の周りに、社会人として留学する人たちがたくさんいる。ところが自分は勉強をしたいという気分にならない。向学心が足りない。

誰もがそう考える程度に、私も賢くなりたいとは感じている。ところが勉強するとなると気が乗らない。嫌だというイメージより、どうもピンとこない。自分のなかにある賢さのイメージと勉強のイメージがつながらない。

ある文豪が娘に掃除のやり方を教えた話を思い出す。文豪は、明確な掃除の「型」を持っている。娘に掃き掃除などさせると、動きに無駄が多い。娘自身にとっては自然な動きであろうが、父親が手本を見せると、なるほど無駄が多いという話。

娘はいつしか掃除の「型」を覚えて、意識しなくても型どおりにできるようになるだろう。この型どおりにできるようになる、というところが一般的な勉強のイメージだろう。この勉強のイメージがピンとこないのだ。どちらかというと重要なのは、自分にとっての自然な動きが、型を示されることによって不自然な動きであると娘が気づくことではないか。

学習理論家によると、私たちが何かを学ぶのは、意外なことが起きたときだけだという。

いわゆる勉強には、意外なことが起きるというイメージが浮かばない。ほぼ何も知らない白紙の状態が最初にあって、時間をかけて立派な理論をたたき込んでいくというイメージが浮かんでくるだけだ。白紙の状態にとってはどんな理論も意外ではないだろう。ありがたく拝聴するだけだ。

「意外なことを起こす」というのだけをたくさんやってみたい。自分が意識せずやっていることを意識するということだ。文字通り、意・外なこと、だ。

ある種の確信がある。自分にとっての賢さは、知らないことを知るようになることではない。すでにやっているのに自分で意識できていないことを意識してみるということだ。自分を無意識から引っ張り出して意識の目の下に晒す。そこで意識されたことは変化して、また無意識の世界に戻っていく。そのための外部刺激として「型」というものがあると便利だが、なくてもそれはできるはずだ。重要なのは自分を観察することだ。自分が意外に感じた小さな瞬間を、忘れずに拾い集めていくことだ。

ライフログには可能性を感じる。それは人類を賢くする装置としての可能性だ。忘れないためのメモ帳としての役割には期待しない。どうせ忘れてしまうようなことをとっておいてもらうことよりも、ログに残された過去の自分の意外さを、そのまま自分に突きつけてくることに期待する。意外であることに気づき、一歩賢くなること。そのとき道筋は十人十色のはずだ。当然、賢さの目的地はひとつではない。

賢さのオルタナティブがここにあると思う。