「みんなが逃げなくても逃げろ」
ちょっとはっきり覚えていないのだけれど、鳥の群れがどうしてあんなにまとまって動くのかということについて、個々の鳥には二つの重要な能力があるんだという話を見た。ひとつは自分の隣りを飛んでいる鳥の動きを把握する能力、そしてそれに対して反応する能力。このふたつがあると、全体としての動きの設計図はなくとも、鳥どうしはぶつからずにまとまって飛べるのだという。
われわれも、それに負けず劣らずの高い能力を持っている。ひとことでいうなら、空気を読む力。これを細かく考えると、「周囲の主流派がどのように予測しているのかを予測して、それに合わせて動く」という能力だ。主流派の予測だけしても、それに合わせなければ空気を読まない人だし、主流派の予測さえできない人はうまくやっていけない。
出すぎた杭は打たれない、という表現がある。ある時期までは、皆が「周囲の主流派」を予測し合い、みなで出る杭を叩く。しかし出る杭があるレベルを超えてくると、その強い杭が主流派(数としてではなく、権威として)になり、とたんに叩かれなくなる。このあたりの、「何が主流派なのか?」に関するわれわれの読解能力はすばらしいものがある。多くの人が、ほとんど同じタイミングで主流派の移り変わりを察知するという特殊能力。
震災の時、「日本人は、どうして略奪しないのか?」という問いが海外でだされた。上記の考えに沿うならば、主流派が略奪せず、並んで物資を獲得しようとするからだ、ということになる。厳密にいうと、主流派は略奪しないで並ぶだろうという予測を、全員が互いに共有しているということになる。「いや違った、主流派は略奪だ」と思うに至る予兆があるならば、みなの予測も代わり、みなが一気に略奪に走るという状況も生まれるだろう。
このあたりは大ざっぱに日本人の特徴と言われるところのようで、この主流派の予測能力、そしてそれに合わせて行動する能力は外国人を驚かせる。外国人がお客さんとして日本を訪れると、もてなす側の日本人が実に素晴らしい動きに見えるようだ。逆に、同じ仲間として働いた場合、主流派を予測する能力もそれに合わせる能力も外国人になかったりするので、きわめて不評ということになる。
笠井さんは自身の子どもたちに、津波の怖さを繰り返し聞かせてきた。三女の及川透子(ゆきこ)さん(27)は、地震がおさまるとすぐに2人の娘を保育園に迎えに行き、高台にある自宅へ避難した。「みんなが逃げなくても逃げろ」。透子さんの頭にあったのは、笠井さんの言葉だった。(東日本大震災 2度の津波体験、次世代へ 岩手・大船渡 (毎日新聞) - Yahoo!ニュース)
海沿いの道路を走っていて、周りの車はまったく逃げる様子が無かった、唯一、津波に詳しかった人が周辺に説いて回り、何人かだけは間に合って逃げた・・・という話も耳にした。主流派を予測してそれに合わせる能力は、ときに悲劇を生むこともある。ある外部環境に対峙する場合、われわれはその外部環境そのものでなく、それに対する主流派の反応を先に考えてしまう。だが集合知の事例にもあるように、集団での賢い意志決定は、ひとりひとりが周りから独立して判断したときに全体として成立するものだ。
ひとりひとりが独立して判断して、略奪をすべきなのか。周りの主流派の反応を予測して動くことに徹して、ときには危険であることを覚悟すべきなのか。それとも、第三の道があるのか。このあたりが、どうも大きな問いとして、割り切れないで残っている気がする。