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にぎやかなサービスについて

「便利である」ということは、黄門様の印籠みたいなもので、その言葉を出すと誰もが黙るような迫力がある。すべてのサービスはそこへ収束されるんじゃないかというような迫力が。

ところが便利には退屈がつきまとう。便利というのは快適に目的を達成することだから、それを突き詰めてしまうと、合目的的だけどつまらないという世界に入っていく。何の寄り道もない退屈な合理性。

便利には相容れない、もうひとつの価値がそこで登場する。「にぎやかさ」である。にぎやかさは、盛り上がりを生む。

メールは互いに同席していなくてもいいから便利だ。でも盛り上がりやにぎやかさがない。チャットは、時間に縛られるから不便だ。でも盛り上がりはあって、にぎやかさがある。ニコニコ動画は便利かというと違うけど、にぎやかで、盛り上がりがある。LINEもそうかもしれない。ごちゃごちゃしたサイトや店舗もこちらに属するだろう。

便利さとにぎやかさということについて、街の開発は良い示唆をあたえてくれる。

田辺は、都会とは芸能や文化の集積ではなく、「そこへ行けば何かがある」と思わせる点が必要であると考えていた。(田辺茂一 - Wikipedia

都会というのはいろいろな機能を持っているので、「便利な場所」と考えることもできる。でもそれならAmazonのほうが便利かもしれない。都会の価値は、「そこに行けば何かがある」「誰かが何かをやっている」というにぎやかさにあるのだろう。

ジェイコブスという人が、魅力的な街について4つの原則をまとめている。これは便利さというよりも、にぎやかさと盛り上がりの世界に属している知見だと思う。

「街路の幅が狭く、曲がっていて、一つ一つのブロックの長さが短いこと」
「古い建物と新しい建物が混在すること」
「各区域は、二つ以上の機能を果たすこと」
「人口密度ができるだけ高いこと」


便利さとにぎやかさは必ずしも相性がよくない。ほんとうはにぎやかさが大切なのに、そこに便利さを持ち込んでしまうと、困ることもある。にぎやかさが失われた時に、便利さでそれを埋めようとすると何が起きるか。

自分は県内、伊豆や山間地を除く、ほとんどの地域を自転車で走ってきました。そして、商店街や中心市街地の様子や変遷も見てきました。だから言い切ってしまうのですが、

「道路拡幅をして、再生した商店街・中心市街は一つもない」

これが結論です。(シートン俗物記 - 道路を広げてはいけない 自滅する地方都市

にぎやかさと便利さは、どう両立できるのだろうか。そのためのヒントは、そのどちらも好きである人間の心理的特徴に見て取れる。

人間は「いい感じに予測が立つもの」が好きだ。そこに行けば何かあるというにぎやかさも、自分の思い通りに達成できるという便利さも、自分の予測がうまく成立するから価値になる。予測と違う反応には違和感が生まれる。人間は予測と学習の動物である。好奇心と恐怖をエンジンにして、予測をして、学習する。

人々が何を予測しているのかというのを最初に考えておけば、そこで実装するべきことが便利さなのか、にぎやかさなのかがはっきりする。

目的がはっきりあって素早く終えたい人が多ければ、便利な場所を。
目的は漠としか存在しないが、その場を楽しんで帰りたいなら、にぎやかな場所を。

にぎやかなサービスにはまだ発展の可能性があると思う。