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第三者としてのマニュアル

熟達者がそれを作り、初学者がそこから学ぶ。それがマニュアルに対する認識だった。
組織においてはそれが逆ではないかということを、ある話を聞いて思った。

ディレクターは自ら手を動かして仕事をしてはいけないという。彼がやるべきことは指示と判断であり、その際にはマニュアルが必須なのだという。マニュアルは本当は、熟達者のためにある。熟達者は、マニュアルから引用し、指示を出す。相手の仕事に対しても、マニュアルに従っているかどうかによって、判断を下し、伝える。もちろん熟達者なのだから、マニュアルに書いてあるような内容は熟知しているし、そんなものをいちいち見なくても同じく指示や判断をくだすことはできる。しかし、それはやってはいけないことだという。

組織において、そこで行き来する指示や連絡が、個々人の好みにすぎないのか、あくまで仕事としての割り切った判断なのか、それが明解であることはとても大切だという。たとえ熟達者が、周りに出す指示や判断を一瞬に頭の中で処理できてしまったとしても、「マニュアルのどこにどう書いてあるからこうなのだ」としておかない限り、周りは何を信じていいのかわからなくなる。ディレクター自らが手を動かして処理してしまうことは最悪だ。周りの仕事を否定して、自分の好みを押し通している。周りからは、そう見える。

マニュアルは裁判における判例六法全書のようなものらしい。だから、マニュアルは必然的に分厚くなるし、それはそれでいいのだという。なにせ、熟達者のためのものであるから。

初学者にとっては、マニュアルはむしろ自分で作るものである。初学者は既存のマニュアルを一から全部読む必要はない。読んだところで意味はわからない。学習はインプットではなく、アウトプットによって規定される。自分が何をわかっているのか、アウトプットしてみることによってその穴がどこにあるのかを理解できる。わかっているつもりであったことが明らかになる。何を学ぶべきかも。だから初学者は、たとえほとんど何もわかっていなかったとしても、自分なりのマニュアルを書き始めるべきなのだ。それは必ずしも公開しなくてもよい。自分にとっての指針となればいい。

組織が合理的である「ふり」をするためには、マニュアルという第三者が存在する必要がある。マニュアルがない組織では、技能が個々人の中で埋没するということ以上に、互いの「察し」に全てを頼ることになる。相手の意図を察して、そのとおりに動くというアクロバティックな能力が求められるようになる。

"いまの企業では、新入社員に「コミュニケーション能力」が求められています。"それがアクロバティックな「察し能力」でないことを願いたい。