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私は役員になれない

私は役員にはなれないのだろうなと思う。ばらばらな知識しかなくて、持論の体系を持っていないからだ。

いろいろな会社の役員の方と関わる機会がよくある。全員がそうだとはいわないけど、彼らは驚くほど似通っている。彼らはなんらかの「持論」を持っている。時間をかけて練りあげられた持論は聞いているだけで面白くて、それをアンソロジーにしたらベストセラーが生まれると思う。この持論は体系立っていて、かつ主観的だというのがポイントだ。その人が世界を見る角度がはっきりと出ている。どの持論も違っていて、偏っていて、面白い。

持論は偏見から生まれる。客観的な持論などというものは存在しない。客観性を目指すと学説になる。そしてビジネスにおいてそれをやろうとすると、情報不足で人生がタイムアップになる。

原発の検証番組では、前の首相は様々な場面において「十分な情報が回って来なかった」ことを強調していた。情報が不十分であった結果として判断が不可能で、それが免責を主張する根拠なのだと。(マニュアルとリファレンス - medtoolzの本館

役員は結論が先にある。「これはこうなんだ」。そう考えてからそうである理由を考える。世にあるひとつひとつの事実は、彼らにとって積み上げるべき要素ではなく、思考のきっかけでしかない。結論を立ててから、それが現実に適用できるかシミュレーションする。面白いことに、彼らは妙に素直である。シミュレーションで間違いがあったりするとその持論を簡単に引っ込める。ともあれ、このテストをパスし続けた結論が彼らの持論となる。

彼らは我々に対してよく問いかける。「よくわかった。もしそうであるならば◯◯になるはずだが、そういうことでいいのか?」彼らは事実から積み上げた理屈の流れに興味がない。理屈をまず先に立てて、じゃあそうだとするとそれで世界を説明できるのか、という考え方の順番をする。とても演繹的なのだ。

なぜこういう考え方をする人が役員によく見られるのだろう。それは彼らが明確だからだと思う。この明確さを作り出しているのが偏見と持論である。人は明確なものが好きだ。上司から見て、はっきりした部下は扱いやすい。部下から見て、はっきりした上司は扱いやすい(好き嫌いはわかれるが)。対応の予測を立てやすいからだ。「あれもある、これもある」という人は、予測が立たないので扱いづらい。誠実だし客観的だとは思うのだけれども。

組織にはビジョンというものがあって、それが行き先を指し示すことが多いのだが、このビジョンにも偏見がつまっていなければいけない。誰もが賛成するようなことは、方向性ではなく、単に常識だ。ビジョンは組織における判断基準になるのだから、それが単なる常識なら、別にビジョンはなくてもいいことになる。ビジョンはトップの偏見で決めなければならない。ボトムアップで多数決を行うとビジョンは常識になってしまう。

今日も私は河原で小石を集めている。河原でおもしろそうな小石を見つけて、なんておもしろいんだろうと楽しんでいる。河原の小石はこうだ!と結論から考えたりはしない。いつまでたっても、系統立った持論が出来上がらない。

残念だが、私は役員にはなれないと思う。