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群衆の叡智でカレーライスが出来るか

いわゆる「群衆の叡智」では、集団の中にいる人達が、それぞれ違う意見を持っていること、それぞれが流されないこと、それぞれが専門を持っていることなどの特徴を挙げている。最後に統合集約するにしても、それぞれの個人はバラバラでないとダメという考え方で、なんだかアメリカを想像してしまう。

こういう集団からカレーライスが(ラーメンでもいいが)生まれるだろうか?外から入ってきたものを、妙にノリよく自信満々な内輪ノリの人々が、「この食材入れたらいいんじゃね」「ナンじゃなくてご飯にしよう」「甘口もいいよね」みたいに魔改造を繰り返して出来上がったものが結果として本家と互角以上の戦いをするようなことが生まれるだろうか。

互いに似通った人たちが、自分たちにしか通じない常識で、ノリよくどんどん育てていってしまような魔改造の知性というのも間違いなくあると思う。

プライベートヒーロー

実家に帰って父親や母親と話をしたりすると、たとえば瀬戸内寂聴とか、寺島実郎とか、そういうある程度有名な人をなんとなくお気に入りとして持っていて、彼らの本を読んだり最新の発言とかをチェックしてたりして、判断の軸として持っていたりする。へえ、そういう人を参考にしているんだ〜と思う。

一般に知らない人のインタビューをしていても、意外とみんな、そこそこ有名〜ある領域では有名、な特定の人をチェックしていたりして、その人の考え方に強く影響を受けていたりする。たとえば、一般的には有名ではないけど、Youtubeでニュース解説をしていたり、ポッドキャストで配信している人など。

こういう人を「プライベートヒーロー」と名付けて、どんな人がいるのか調べてみたら面白いだろうなあと思う。

便器に浸かりたくない

日本ではバストイレは別にしたがるのに、海外では一緒であることが多いのはなぜか?ということをあれこれ調べていた。歴史的には、海外ではバストイレは家族ではなく個人に紐づくから家に何個もあるのだ、という記述がいくつか見つかるのだが、これは家に何個もある理由であって、バストイレが一緒の空間にある理由にはなっていない気がする。

実はもっと話は単純で、海外の人にとってはバスというのはトイレと同じで「流すもの」という認識なのではないか。一方で、日本の人にとってはバスというのは「浸かるもの」であり、トイレが同じ空間にあると無意識のうちにトイレに浸かる連想ができてしまって不快感があるとか。

ゲームの楽しさよりもゲーム化の楽しさ

ポケモンGOに乗っかって数日やってみて思うこととしては、外をウロウロしながら捕まえたりして集めたりするわけだけど、なんか、こういうこと、子供の頃にやっていたよなあという感じ。

それこそ道路の白線の上を歩くとか、学校で蹴りだした石ころを家まで蹴ってつないでいくとか、勝手にルールを決めて、枠を決めて、ワイワイしていたなと。遊びってそういうことだったよなと。勝手に決めて枠を作ってゲーム化することで、ただの道路、ただの石だったものが、ぜんぜん違う意味を持ってくる。

斬新なルールを持ってくることで、世界が違うものに見えてきて、面白いものとなる。その斬新なルールを考えたり改造したりすることもまた子供にとっての楽しみだったわけだけど、今やそのルールは外から与えられないと楽しめないくらい思考停止してしまったのかなと思うと、すこし寂しい気分。

もしかすると、石ころ蹴りゲームというマイルールに乗っかって一緒に楽しんでくれる友人が今はいないのかもしれない。寂しいことだけれど、すべてのニーズの根本は寂しさでもある。

新型多数決

政治の話でも、会社の中での話でも、「大勢でなんらか一つの結論を出す方法をどうするのか」はなかなか難しいところで、全員に一票与えれば平等なんだけれども、結果として良かったのかどうかわからないな、というのは永遠の課題だと思う。

最近は代議制みたいに「人を選んで、その人に決めてもらう」というのはあんまり人気がなさそうに見える。人を選ぶ時点で、どの人を選ぶべきかがよくわからないので、その選んだ人の意思決定に対して納得もあまりできないということになる。そこでまた個人一票制に戻るわけだけれど、むしろ逆方向に進化はできないものか。

たとえば、ある投票が決まったら、自分の身近な人でいいので、「自分よりはこの人が決めたほうがいい」という人に一票を託す。託された人は託された人で、「自分はこの人が詳しいし信頼できる」という人に一票を託す。フェイスブックでいう友達の友達みたいなつながりを作っていって、一番詳しくない人の一票も、最終的にはつながっていって詳しい人に託される。託す人がいない場合、個人として投票する。でも、もしかしたらその人は、誰かに一票を託されているかもしれない。

互いに誰に託されているかわからないのがポイントで、これが可視化されてしまうと賄賂が横行するだろうと思う。テクノロジー的には実現できそうな気がするし、小さい何かの案件で試してみるのはいいかもしれない。

明らかなハズレを考える

仮説なりアイデアなりを考える時のコツみたいなことを聞かれることがあるが、なかなか答えるのは難しいというか、思考習慣みたいなところはあるのだろうと思う。

思考習慣について明確に言えることがあるとすると、見ていて「明らかなハズレを真面目に検討する人かどうか」というのはあるといえる。もちろん、検討すべきだと思う。

直感的には、明らかなハズレなど検討すべきではないのかもしれない。でも逆で、明らかなハズレを検討してみると、「どうなってしまうとダメなのか」というのが明確にわかる。さらに言うと、意識して「典型的な正解」というのをいったん出してみるべきだ。これはベストにたどり着くためというよりは、自分の思い込み、何を無意識のうちに当然としているかをあぶり出すための作業だ。

経験から言うと、「明らかなハズレ」もしくは「典型的な正解」を大きくねじったものが良いものであることが多い。明らかなハズレを考えた時に出てくるダメな部分を、今のやり方ではない方法で解決したり、典型的な正解で無意識の前提に考えている部分を、否定して疑って置き換えたりするものが良い。

上記は時間のかかる作業になる。先輩が昔「考え抜いたのか?」とよく言っていた。こういう作業のことだったのではないかと思う。

契約文化

契約書を(形式的にではなく)ちゃんと作る文化とそうではない文化では、長期的にはかなり大きな心理や行動の違いが出てくるのではないかと思い始めた。

もし契約書を結ぶ習慣があるならば、発注主は自分が求めていることを厳密に・具体的に考えなければならないだろう。逆に契約さえちゃんと成立するようなら、それを履行しないかぎりお金は支払わなくて良いのだから、発注相手の実績がよくわからなくても損はしないことになる。

逆に言うと、契約が成立しにくい習慣の文化では、「過去あそこにこう頼んだらこういうものが出てきた」という感覚で仕事を進めていくことになるので、結果として実績のないところは新規参入はしにくいだろうし、立場の強い発注主がぼやっとした発注をして、立場の弱い受注側はタダ働きを強いられる傾向が出てくるだろう。